『思考するカンパニー』を読んで

2011/08/08

読書

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■この本を読んだ背景と前提
大量生産・大量消費社会(以下、大量消費社会)からサスティナブル社会へのシフトが提言されて久しい昨今、サスティナブル社会が志向される理由と目指す姿を読み解きたい。 

■本のまとめ
・大量消費社会の成り立ち
 大量消費社会が隆盛したのは産業革命で製造効率が上がったのが大きな要素であった。
しかし重要なポイントは、フォードの提案した「分業」という考え方だったという。
このイノベーションはITと比べても革命的で、『IT化を歴史の劇的な変化と捉える傾向があるが(中略)改善モデルに過ぎない』と本書にも述べられている。

 さて、分業によって製造効率も製品品質も飛躍的に上がり価格が下がった。
この時代はまだ一般市民に工業製品が行き届いていない時代であったので、供給すれば売れた。
こうして大量生産社会が出来上がった。
 大量消費社会では、資本家は利益還元を求め企業に投資をした。
企業は株主の所有物であり、株主が増えることで企業の存在意義として「より多くの利益を還元すること」が重要になっていく。
利益還元の大きな企業こそ市場評価が高まり、より低コストで資本を集めることができるようになる。
そうした評価と売上が経営者の利益であり、利益を求める中で従業員はコストと見なされていく。
こうして従業員や顧客がステイクホルダー(=関係者)として度外視された企業活動が形成されていく。

 大量消費社会の結果、世界に跨る大企業ができあがり、公害・労働問題が起こり、便利な物の行き渡った社会ができた。

 
・大量消費社会の三つの弊害
 大量消費社会の弊害は三つあると考える。
 第一は「経済圏と生活圏が乖離した状態」を形成したことである。
これは工業化が進むほどに、資源調達と資源供給先が一致しなくなっていったということである。
従って人々はサービスを享受しながら資源の枯渇とそれによる災害を考慮しなくなっていった。
しかし資源は余所から調達されており、調達地域は資源枯渇から問題が起きる。
こうした被害は取り除くべき原因をなかなか除くことができず解決に至らない。
現在も国際的に生活圏と経済圏は乖離し続けており様々な問題が起こり続けている。
特に日本は輸入大国として経済活動を活発に行なっている以上、どこか離れた地域の生活圏が脅かされていないか意識するべきなのだろう。
最も、要因が単純直結してくれているわけではないので、普段の生活を支える消費物に対してそうした目で見てみることも大切だろう、という程度の話になるだろうか。

 第二は「製品を計画的に陳腐化させていく必要がある」ということである。
特に現代において、製品はすでに消費者に普及している。
すなわち企業が売り上げを得るためには消費者がすでに似た製品を持っていてもなお購入するよう欲望を焚き付ける必要があるということである。
こうして企業は大量生産だけでなく大量消費を積極的に促すことになる。
企業は欲望を刺激して、資源的に見れば無駄であろうとも消費や新製品への切り替えを促す。
サスティナブルという視点がまだ広く知られていないころには、切り替えられた製品は廃棄物でしかなかった。
大量消費社会には大量の廃棄物が付きまとうのである。

 第三は「経済的利益主義」である。企業活動の目的が利益主導になることこそ、上記二点を問題視しなくなる理由と言える。
大量消費社会を築く上で避けられない要素だったといえるだろう。
確かに社会の利便性は増した。
しかし従業員をコスト視するような経営が経済的利益主義を基盤としていることから考えれば、これは弊害だろう。
これらの弊害を認識し、別の社会形態へのシフトを提唱したのがサスティナブル社会である。
 
・サスティナブルとCSRとこれからの価値
 サスティナブルとは持続可能と訳される言葉である。
企業の存在基盤である社会の存続を危うくするような企業活動に持続可能性は無いという見方ができる。
 
ではサスティナブルを目指す企業はどういった活動を行うべきだろうか。
CSRとして企業活動が取り沙汰されることが多いのでその点から述べてみよう。
CSRは企業社会的責任といい、企業が社会に対して負う責任を果たすための活動である。
企業は組織体として社会責任を負うものだと一般的に考えられるのがサスティナブル社会の特徴だと言える。

 サスティナブルの実現のためにさまざまな企業がCSRに取り組んでいるが、正解はない。
企業それぞれが自ら考え、内発的に「社会を発展させていくため」に行うものだからある。
CO2を削減することも、植林することも、美術やスポーツ展の開催スポンサーになることも、どこか途上国に支援金を送ることも、その行為自体はCSRに成り得ないとさえ言える。
さらに言えば公害、労働問題、捏造といった問題を起こさないように努力することはCSRの前提条件である。

 とすればCSRとは、アピールするものではない。
企業に関わる様々なステイクホルダーが、企業の活動を正しく見届ければ判断評価ができるのではないか。
しかし、現状は概ねの企業がCSRをアピールしている。これは「市場価値を高める要素」に成り得るからだ。これまで市場は「経済的な利益還元」という経済的な観点でのみ企業を評価していた。
「企業価値」が高まることで企業は資本集めがしやすくなるため、企業は企業価値を高めようとして「経済的利益」を追い求めるのも当然だっただろう。

 だがサスティナブル社会へのシフトにともない、企業の評価を経済的利益のみで行う危険性が指摘されてきている。
そこで経済的利益・環境・社会の「トリプルボトム」という観点から評価を試みられるようになってきた。
ところが新しい観点が導入されたとしても、評価は主に市場における株価の上下で行われる。
つまり観点が新しくなったところで、企業は”市場で”企業価値を高める必要がある点は変わらない。
だからこそ分かりやすくCSRをアピールしなければならなくなったのではないだろうか。
とすれば企業が内発的なCSRを行いづらい理由は、旧来の資本主義的な市場に未だ依存したシステムのせいかもしれない。

 
・CSRの評価と我々の責任
    旧来の市場に依存しないCSR評価として、SRI(社会的責任投資)というものが提言されてきている。

端的には投資家が企業を自ら評価し、社会責任を全うしていると感じたら投資を行うというものである。
 
こうした投資を目指す投資家には知識が求められることになるだろう。
企業の志がどういう形で社会に影響を与えているか、その意図を汲み取るのはそう簡単なことではないのだから。

 しかし、我々生活者にもこうした意識が求められつつあるのではないだろうか。
確かに普段接するサービスや商品が社会に与える影響、それを提供する企業が得た利益をどう社会に還元しているのかまでを明確に理解することは難しい。
たとえば「従業員の障碍者雇用」をどれだけ進めているか、そんなことを生活の中で意識することなどないのだから。

 だが漫然と消費者であり続けるだけではいけないのだろう。
これまで消費者であり続けた我々は、少しでもその製品の存在する意味について考えてみるべきなのかもしれない。


 
■最後に
『「機械を買えば資産になるが、人を採用すればコストになる」。こうした考え方をいつまで是とするのか』
 これは本書にある一文なのだけれど、これを見て愕然とした。
というのも、僕自身「人はコスト」だと思っていたことに気付いたからだ。
バブル崩壊時期に生まれた僕は、リストラがどうの採用減らしがどうのという話ばかりを脇目に育ってきた。
だからなのかもしれないしそれを理由にしたら怒る人もいるかもしれないが、「人こそが価値」という見方は驚いた。

少なくとも企業や、経済活動において人はコストだと思っていた。
だから来年には社会人になるけれど、コストに見合う人間にならないといけないなぁと考えていた。
会社にはコストを掛けていただくのだから不利益にはならないようにしよう、と。

しかし自分がその企業にとっての価値なのだと考えたら、なんだか嬉しくなる。
自分がそこに属していることを価値だと認めてくれるのなら、単純に、もっと価値を高めたいと思う。

CSRやSRIの下りで考えたことは、きっとこういうことなのだろうとも思った。
つまり、経済的な価値の見方からそれ以外の価値を見出す方向に移ることの大切さだ。
指標としても、利益としても分かりやすいお金という価値観に、どれだけ無意識に依存しているのか。
もちろん安いほうがいいけれど、物を消費する時にそれ以外の視点考えないとなぁと思った。



ここまで読んでくれてありがとうございます。
なにこれ半端なく照れくさい^q^

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雨森 佐歩吉(あめのもり さぼきち)です。 趣味は絵とゲームと読書と筋トレとブログいじり。

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