『ヘレン・ケラーはどう教育されたか』を読んで

2011/08/11

読書

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■この本を読んだ背景 
  恥ずかしながら僕はこれまでヘレン・ケラーって全く知らなかったんです。
先日彼女のことを知り、全盲全聾の偉人は如何に偉人足りえるようになったのかを知りたくなりました。
特に彼女の教育をどう行ったのか、どうコミュニケーションしたのかに関心を持ち、本書を読みました。


■本のまとめ
・ヘレンの言語取得 
  この本はヘレン・ケラーに教育を施したサリバンの手記、手紙の訳がメインです。
そのため日記のようにヘレンの学習の様を記しており、おそらくケレン自身の手記とは見え方が違うのでしょう。

   ヘレンがサリバンと最初に出会った時、全盲全聾を感じさせない程に活発な子供だったようです。
とは言ってもワガママで癇癪持ちで欲望を叶えられなければ暴れることしか知らない、そんな幼さ故の暴力的な活発さです。
そんな活発なヘレンを相手に、サリバンはまず「モノには名前があること」を教えようとします。
言葉を腕などの肌をなぞることで伝えようとしますが、ヘレンは綴られたスペルは再現できてもその意味を理解できません。
何度もケーキを食べさせる前に綴らせ、「ケーキを食べる行為」と結びつけることから、習慣付けていきます。

   人形がほしい時、ケーキが食べたい時、水が飲みたい時、ヘレンはその行為に関連付いた言葉を綴るようになります。
ですが物の名前として理解しているわけでは無かったようです。
例えばDrinkとMugとMilkの区別が出来なかったりします。
しかしヘレンはあるきっかけでMugとWaterの区別が付き、その瞬間からモノに名前があることに気付きます。
それからヘレンはモノの名前を凄まじい勢いで覚え、動詞も抽象的な概念さえも理解し獲得していきます。

   考えることや議論することが可能になっていくと、ヘレンはサリバンに常に疑問を投げ掛けるようになっていきます。
サリバンは真摯な回答に努め、自らも学習を進め、ヘレンをより知恵の探究に向かわせます。
こうしたサリバンの教育姿勢が、後のヘレンの活動へと繋がったのでしょう。


・サリバンの考え
   サリバン自身幼い頃に全盲に近い状態を経て回復した経緯があったことも、ヘレンの教育に携わる際の重要な要素だったと考えられます。
そうした経緯があるからこそ、既存の教育機関とは違う視点を持っていたのでしょう。
例えば、障害のある子供達が何故学校教育では疎んじられがちなのかについて、1880年代頃の彼女の手記に厳しい言葉がいくつか見られます。
「落後する子供を選び出し切り捨てるのが学校の任務となっているのでは」「学校の教育は消化不良を起こさせている」などです。

   特にサリバン自身『教育で大切なのは感覚を多く経験する能力。言葉ではない』と語り、ヘレンの教育においてもそれを実践しました。
子供たちに正しい型を押し付けるのではなく、知りたがる欲望を抑えつつけず自然と「伝えること」を望むのを待つべきだ、というのがサリバンの考えでした。


■本書を読んで
   ヘレン・ケラーについて知りたくて本書を読みましたが、読み終わってみればサリバン先生への畏敬の念が膨らんでいました。
彼女は教育者として、一人の子供の可能性を最大限に活かすことだけを考えているように思えます。
また、ヘレンの言葉を獲得していく喜びを見ていくと、今何気なく自分が言葉を使えてること、人と話せることの凄さを感じさせられました。
自分の当たり前を、その外側から見た意見に触れるのは新鮮です。
如何に当たり前の中に浸っているのか、それに気付くだけでなく意識して見たら日々の見え方も変わるでしょうか。
ひとまずはこの二人に敬意を表し、学ぶこと・学ばせること、どちらに際しても常に真摯でいようと思います。

  次はヘレン・ケラーの自伝でも読もうかなとおもいつつ、ここまで読んでいただきありがとうございました。

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雨森 佐歩吉(あめのもり さぼきち)です。 趣味は絵とゲームと読書と筋トレとブログいじり。

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